総合医としてあらゆる患者さんの人生に寄り添えることは
「医者冥利に尽きる」
広島市立北部医療センター安佐市民病院 総合診療科
主任部長
原田 和歌子 先生
プロフィール
広島県出身
- 1999年
- 自治医科大学医学部医学科卒業、医師免許取得
- 2000年
- 県立広島病院 初期臨床研修
- 2002年
- 厚生連吉田総合病院 内科
- 2003年
- 国保蒲刈診療所(第一子出産)
- 2004年
- 厚生連吉田総合病院 内科
- 2007年
- 県立広島病院 内視鏡科
- 2008年
- 安芸太田病院 内科(第二子出産)
- 2009年
- 広島逓信病院 内科
- 2012年
- 広島市立安佐市民病院 総合診療科
- 2019年
- 同 総合診療科部長・広島県北西部地域医療連携センター センター長 兼務
広島県地域医療対策推進監
北広島町豊平診療所 非常勤
医師を志し、総合診療医を目指した経緯を教えてください。
高校2年頃までの私は、友達と毎日遊ぶことだけ考えている女子高生で自分が将来どんな職業に就くのか全く想像できていませんでした。
でもある時、授業でパキスタンやアフガニスタンで医療・人道支援に取り組む中村哲先生のことを知り「これだ!」と思ったんです。
「海外の無医地区で活動できる医師になりたい」という目標ができたことで一気に受験勉強のスイッチが入り、自治医科大学に入学することができました。
といっても、医学生の頃から地域医療や総合医になることを希望していたわけではなく、むしろすごく不安でした。
自治医科大学を卒業したら、3年目からは山間部や島などのへき地で、どんな病気や症状でも診察しないといけないと言われていましたから。
でも不安があった一方で、地域に出たら肺炎を診るかも、脳梗塞も、皮膚疾患も、骨折も診るかもと思っていたので、臨床研修のスーパーローテートではどの診療科もとても興味深く、それぞれに没頭したことを覚えています。
そして2年間の臨床研修が終わり、中山間地域唯一の救急告示病院で勤務することになりました。これが私の総合医としての第一歩です。
不安だった地域医療の現場はいかがでしたか?
とにかく鍛えられました。毎日さまざまな疾患で来院されるたくさんの高齢者を診察し、必要な対応をしなければなりません。高齢者は複合的な疾患を抱える人が多く一つの臓器だけで完結できないため、私が治療をするのか、専門の医師に介入してもらうのか、入院なのか、外来なのかなど、経験の浅い当時の私には判断が難しいことも多々ありました。
ただ、当初、私が怖がっていたような「最初から一人で何でも診て、何でもできるようになっておかなければ」という不安は、取り越し苦労だったかなと思います。
というのも、地域の病院で何年も働いておられる先生方は、多岐にわたる知識・技術・経験をお持ちで、名乗っていなくとも素晴らしい総合医だからです。
研修ではないのでマンツーマンの手厚い指導が受けられるわけではないですが、聞けば何でも教えていただける環境だったので、私はとにかく聞き、教えてもらったことを実践し、診断力や技術力、視野を養っていきました。
それにベテラン看護師さんたちの能力も同様に素晴らしく、またソーシャルワーカーさんもとても心強い存在でした。
医師としてのキャリアの中で印象に残っているのはどのようなことですか。
総合診療に対する意識が変わるきっかけになった出来事があります。地域に出て数年経った頃のことです。担当していた1人の高齢の男性患者さんについて、当時の私は“ちょっと不満の多い全く食事をとろうとしない困った患者さん”という印象を抱いていました。
ある時、身内の方から、その方の若い頃の写真を見せてもらいながらお話をお聞きする機会があり、実はとても優しく愛情いっぱいのお父さんだったことを知りました。
それまでの私は、患者さんとしての側面しか見ていなかったのです。どんな患者さんにも、当たり前にお元気だった頃や若い頃の人生があり、お一人お一人に現在に至るまでの長いストーリーがあります。そのことに気づいてからは、患者さんのこれまでの人生や生活背景にも思いを巡らせることができるようになりました。
総合診療は幅広い病気に対応するだけではなく、できるだけ患者さんの人生に寄り添い、ご家族の思いも汲み取りながら、最適な治療方針や医療のゴールを決めていくケアでもあります。
患者さんに対して、人生の先輩としての敬意を持って寄り添い、治療に取り組めることは、私にとっても幸せなことだと感じています。
義務年限終了後も総合医を続けたのはなぜですか?
2003年と2008年に出産したので、義務年限が明けて3年間は、子育てを優先してなるべく定時で帰れるような働き方を選び、総合診療から離れていた時期もあります。「幼い子どもたちともっと一緒に過ごす時間が欲しい」という思いから、そういう選択をしました。
そんな時、東日本大震災で懸命に働く、地元の子育て中の看護師さんとの出会いがあり、自分自身を振り返ると、元気に育ってくれている子どもたちに恵まれ、自分の親のサポートを受けられる状況にも恵まれていることに気づきました。
そうした折、もう一度総合医としてお役に立ちたいという気持ちとなっていたところに、「一緒に救急総合診療をやろう」というありがたいお誘いをいただき、安佐市民病院の総合診療科で勤務することになりました。広島県北部地域の基幹病院である安佐市民病院なら、義務年限中にお世話になった中山間地域の皆さんに「恩返しできるかも」という思いにも背中を押されました。やはり、地域でいろいろな患者さんを診させてもらったからこそ、私は今こうして医者になれているんだという思いが、とても強いのです。
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